10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

高橋英伸先生(享年39歳):リンパ腫研究の現状と未来への展望~夫の直腸がん闘病生活と寄り添う妻(10歳のマリア)第66回~

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~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行(2010年)からの引用~

夫の現役時代に投稿したエッセイ集

『リンパ腫研究の現状と未来への展望』 
~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行~その内容を次の5つの記事に分けて紹介しています。

5. IT革命がもたらしつつある変化  Steve Jobsの話

🍁「点と点をつなぐ:Connecting the dots」
🍁「愛と喪失:Love and Loss」「死:death」

6.死についての私自身の体験

🍁 高橋英伸先生(享年39歳)
🍁 大星章一教授(享年54歳)
🍁 Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳)

 

尚、冒頭の 1.~4は、別にまとめてあります。その記事は、(こちら

最後の 7.も、順次まとめます。

6. 死についての私自身の体験

🍁 高橋英伸先生(享年39歳)

Steve Jobsの「死を前にしたら、最も重要なこと以外はどうでもよくなる」ということについての私自身の体験を述べたい。

私自身は多くの若い大学院生や研究生とともに仕事をしてきたが、その中に新潟大学医学部の卒業生で第一内科の大学院生だった高橋英伸先生がいる(図5)。彼は私たちの研究室でBCL10のmutationの仕事をして、ASH(※1)でも口頭発表をした。私たちの研究室で論文を作成し、新潟大学に帰局した。

7年ほど前に、ポストン大学に留学したが、命令するだけの議論の少ないボスとうまくいかす、再び、私が相談に乗ることとなった。彼からメールが送られてきたのだ。ボスとの間で、いろいろな理不尽なやりとりがあったが、結局、Dana-Farber研究所のMargaret Shipp博士の研究室に移ることができた。

Shipp博士の研究室で、カを発揮し、彼の仕事を論文にまとめることができたが、おそらく苦しい留学生活をきっかけに家庭的にうまくいかなくなったのたろうと思うが、帰国後、離婚することになった。

その後、素敵な女性と巡り会い結婚した。その女性は、高橋英伸先生がかつて私たちの研究室に来る前にDNAやRNAの扱いの手ほどきを受けた女性だった。帰国後の苦しい時期に再会し、結婚することとなったと聞いた。ボストンから帰国した後は、おそらく個人的な問題もあったのだろうと思うが、病院での勤務はあまりうまく行かなかったようだ。正確にはどのようなことがあったのかはわからない。

しかし、上越の病院に勤めている時に、私に連絡があり、長野駅で会った。いろいろな話をしたが、最後の方に、「無給でもよいから、先生のところで研究をさせていただけませんか?」と、聞かれた。その時の状況がよくないことはわかっていたので、とっさに私は、「奥様もいるし、無給というわけにはいかないので、少し心当たりを探してみる」と答えた。

 

 その時に、私は何も考えずに、「是非、すぐ来なさい」と言えばよかったのだが、そう言わなかったことを今でも深く後悔している。

彼は、その年の12月22日に事故死してしまったからだ。

私は彼と会った後、聖マリアンナ医大に移っておられた三浦偉久男先生に事情を話した。10月に私は高橋英伸先生と聖マリアンナ医大の近くで会って、三浦先生に面接をしてもらい、助手として採用されることがほば決まり、手続きを進めることになった。房子奥様に聞くと、本人はそのことを大変喜んでおり、翌年の4月から赴任することを大変楽しみにしていたそうだ。私もようやくこれで、橋英伸先生が満足して力を発揮できる様になると考え、ほっとしていた。

しかし、その2ヶ月後くらいの12月22日のタ方、突然私の携帯に房子奥様から電話があり、高橋英伸先生が急逝したことを知った。クリスマスパーティーで友人たちに食べさせるために早朝から釣りに行ったが、突堤で足を滑らせ、後頭部を強く打ち、海底に沈んで、窒息死したと剖検の結果言われたそうだ。私は本当に驚き、「これから新しい生活が始まるところたったのに、残念です・・・・・・」というような内容のことを申し上げたと思う。

実際のところはどう言ったかよく覚えていない。ただただ、言葉を失ったというのが正確なところである。

その後、両親の手紙から知ったことであるが、房子奥様が、年末に、亡くなった高橋英伸先生の机を整理に行った時に、引き出しの中から、房子さんあての小さなクリスマスプレゼントを見つけたと言う。

 

 添えられたメッセージには、

「ふうちゃん いつもありがとう。ずっとそばにいてね。ひでのぶ」と、書いてあったそうだ。それを読んだ奥様は、その場で泣き崩れ、涙が止まらなかったという。39歳と7ヶ月の生涯だった(図5)。普段から「ふうちゃんと結婚して本当によかった。ふうちゃんのおかげだ。ふうちゃんいないと生きていけないよ。」と言っていたと聞いた。

 

 このことを経験していたので、SteveJobsの言葉 が身にしみた。「死を前にしたら、ほとんどのことはどうでもよくなる。」おそらく、高橋英伸先生は、とても追い詰められた気持ちがあり、私に無給でもよいから私たちの研究室に来たいと言ったのだと思う。また、無給でよいということについて奥様も賛成されていたそうだ。私だけが、生活費とか、死を直前にしたらどうでもよいことにことにだわったのだ。

あの時に、何も考えすに、彼の希望を聞いてあげていれば、このようなことにはならなかったのだろうと思う。また、同時に彼を追い詰めていったものにも怒りを覚えた。彼を取り巻く環境や離婚に至った家庭的な問題など、私には詳しく知るよしもないが、彼を追い詰めていったものは確実に存在したのだ。そうでなければ、無給でよいから私たちの研究室に来たいとは言わなかったと思う。

しかし、彼が亡くなった今は、どうすることもできない。3年たった今も悲しみが癒えないご両親や房子奥様に英伸先生の分もしつかりと生きていただきたいと願う以外にない。

【注釈】

ASH(※1) American Society Of Hematology 米国血液学会 

1958 年に設立された米国血液学会 (ASH) は、血液学者を代表する専門組織です。 年次総会は毎年 12 月に開催され、30,000 人以上の参加者が世界各国から集まります。

 

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高橋英伸先生が亡くなってから、お手紙を通じて、夫とご両親との交流が続きました。ご両親は、ご子息が夫を頼りにしていたことをご存じだったのだと思います。

年末には、いつも心のこもったお手製のお餅を、お手紙を添えて送ってくださっていました。私もそのお手紙を拝見しましたが、涙ながらに読ませていただいたことを覚えています。いつまでも癒されることのない、ご両親の切ない気持ちがひしひしと伝わってきました。

ある年、このような文章でお手紙が結ばれていました。

「息子がまだ帰ってこないのです。先生の研究室でまだ働いているかもしれません。嫁も待っていますから、早く帰るように言って頂けますか。」

今でも、このお手紙を思い出すと涙がこぼれます。最近では、お手紙も届かなくなりました。高齢になられて生活が変わったのでしょうか。

夫も、高橋英伸先生がなくなった時のご両親の年齢になっていると思います。ご両親の悲しみが、より胸に迫っているかもしれません。

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次回は、
🍁 大星章一教授(享年54歳)
を紹介します。