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~冒頭の1.~4.の内容~ 「リンパ腫研究の現状と未来への展望」

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~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行(2010年)からの引用~

~冒頭の1.~4.の内容~ 「リンパ腫研究の現状と未来への展望」

日本リンパ網内系学会50周年記念シンポジウム 

リンパ腫研究の現状と未来への展望

瀬戸加大

愛知県がんセンター研究所副所長兼遺伝子医療研究部部長

要約

悪性リンパ腫はさまざまな分類が提唱されてきたが、古典的病理組織学により積み重ねられてきたものは新たな分類によって消し去られてしまうものではないように思える。それぞれの分類を確立した研究者たちには、明確な思想があり、それぞれの時代を反映してきたように思う。免疫学の発展と共にその思想が取り入れられ、網内系という概念よりもリンパ系腫瘍という考え方が出てきた。モノクローナル抗体の発展と共に、詳細に解析されるようになってきたが、その後の分子生物学的研究の成果もリンパ腫研究の発展に大きく寄与した。

免疫グロブリン遺伝子やT細胞受容体遺伝子の解明は、腫瘍の由来だけでなく単クローン性腫瘍の明確なマーカーとなった。また、免疫グロブリン遺伝子クローニングから始まる特異的染色体転座の解析により、MYCがん遺伝子、BCL2遺伝子、BCL1(CCND1)遺伝子、BCL6遺伝子が単離され、腿瘍化の分子機構が徐々に解明されつつある。

次いで起きた科学的なimpactはヒトゲノム計画の遂行である。世界中の研究者を巻き込んで壮大な計画が施行され、ゲノム計画に加わらなかった多くの研究者に多大な恩恵を与えた。これらの結果、免疫グロブリン遺伝子のような手がかりのない染色体転座が解析されるようになり、現在は細胞遺伝学的に見出された染色体興常はすべて解明されている。

現在起きていることは、全ゲノムシークエンス法による腫塢細胞の体細胞変異の研究である。一部の先進的な研究者たちから、すでにその成果が得られつつある。このような状況で、次の世代を担う若いリンパ腿研究者たちは何を目指すのだろうか?それはとてもチヤレンジングな問いである。

1.はじめに

「リンパ腫研究の現状と未来への展望」という夕イトルで、上記の抄録の元に、第50回日本リンパ網内系学会記念シンポジウムで発表する機会を得た。

もう一人の演者は国立がん研究センターの下山正徳先生であった。私自身は、歴史を語る資格はなく、現状を語る能力もなく、ましてや未来への展望などあるはずもない。ただ、科学の流れの中で呆然とその流れに身を任せていたに過ぎない。しかし、身近で起きたことを記載することは可能であると思い、話の内容を考案した。

若い先生方にお話をしたいと思ったことは、3点ある。まず、第1点は、間違いを恐れず目の前で起きている問題に自ら参加することが大切だということ。第2点は、時間の流れが速く、また、将来は必ず自らが描いたようには実現しないので、その瞬問、瞬間を大切にしてほしいということ。第3点は、年齢を問わず、指導者としての自覚が必要であるということである。私自身これらのことを言う資格はないことを十分承知しているが、私自身が接してきたきわめて優れた指導者たち、有名ではないが地道に努力を続けて、科学に確かな貢献をした仲間たちのことを伝えたいと考えたので、消え入りたいような恥ずかしさを忘れて、講演したというのが実情である。

2.科学的間違いと科学的態度

科学には問違いがつきものである。意図的な問違い(捏造)もあるが、思い込みによる間違いもある。また、一見、その時の理解では間違いであるように思えるが、後になりより真実を描き出していることが明らかになることもある。事実を深く認識することはいかに大切かが、一見矛盾するデータの中に存在することをしばしば経験する。間違いということに関して、私自身は、個人的にとても苦い経験をしたことがある。

1979年3月に新潟大学医学部を卒業した後、愛知県がんセンターの高橋利忠先生(当時第二病理学部室長(西塚泰章部長))のもとで、腫瘍免疫学を学んだ。具体的には実験的腹水乳がん細胞株を用いたモノクローナル抗体の作成と腫瘍関連抗原解析と治療実験を行った。1982年頃から1986年にかけて数編の論文にまとめたが、同じエピトープを認識しかつサブタイプの異なる一連のモノクローナル抗体の樹立に成功し、現在話題となっている抗体療法による抗腫瘍効果の機序もほとんどこれらの論文で解明することができた。これらの一連の論文は当時かなり先駆的で、それ自身は、引用回数が少ないものの今でも自分の誇りとする論文であり、高橋利忠先生の優れた先見性と指導力のたまものである。

しかし、この腹水乳がん実験腫瘍に発現されていたMM(Mouse Mammary tumor)抗原は、アロ抗原であるLy6.2抗原と同一である。つまり、実験に用いた腹水癌は同一系統(同一純系マウス)から出た腫瘍とは言いがたく、個体が自らのがんを認識する真の腫瘍抗原とは言えないことに後で気がついた。

論文の欠点は何かと言うと、個体が自分自身の腫瘍を認識するという意味での腫瘍特異抗原とは言えず、真の腫瘍免疫ではなかった。しかしながら、この実験系が明らかにしたことは、CD20抗原を認識するリツキサン抗体療法ときわめて類似しているので、その点では、私自身の論文が明らかにしたことは抗体療法の機序としては今も揺らいでいない。また、抗がん剤や毒素をつけたミサイル療法という方法論も当時先駆的であった。

 

腫瘍免疫学は個体が自らの体内にできたがんを免疫系が認識するかどうかということを明らかにした上で成り立つので、そのための努力が延々と続いてきた。その成果により、完全に治癒せしめることができるかどうかはさておき、腫瘍によっては、また、個体によっては、間違いなく腫瘍免疫は成立する。現時点ではすべての人が認識する事実である。しかし、私が腫瘍免疫という分野に身をおいていた頃は、ウイルス腫瘍以外では、いわゆるアロ抗原と思われる物に対する反応を見ていたように思う。腫瘍免疫がそろそろいやになり始めていた頃、高橋利忠先生に、「腫瘍免疫はまじめにやればやるほどデータが出ないですね」と、申し上げたことがある。アロの実験系を排除し、個体から出る腫瘍を対象にすると、腫瘍特異抗原というのはなかなかとらえがたいのである。しかし、そのような厳密性はともかく、そんな基本的で大切なことに目をつぶって、アロ抗原の実験系を使って実験を行えば、データは次々と出る。どのような細胞が抗腫瘍性を担っているかなど、山のようにデータが出ていた。これらは、ほとんどが移植免疫であり、厳密な意味では腫瘍免疫ではない。そのことがわかってきたので、「まじめにやればやるほどデータが出ない」と、申し上げたのである。それに対する答えは、「それがわかればよい」とおっしゃった。冷徹にこつこつと真実だけを見続けてきた科学者としての高橋利忠先生の神髄はそこにあった。

 

もう一つ忘れられない出来事は、suppressor T細胞の研究である。今のTregとは異なり、当時は、I-J分子を持った抑制性T細胞が存在し、その分子はH-2領域(マウスにおけるヒトのHLAと相同遺伝子)のなかの免疫応答領域(Immune responseregion) Ir領域に位置し、免疫グロブリン(Ig)様構造を持っているということまで明らかにされていた。世界中を巻き込んだ競争が展開され、一流誌を飾った。おそらくその数は1000を下ることはない。

日本からだけでも200を超える論文があったからである。確か、仙台で日本免疫学会が開かれた半年ほど前に、Nature誌にMichael Steinmetzが筆頭著者の論文が載ったが、その内容は衝繫的だった。皆が存在することを当然として実験していたIr領域にはI-J遺伝子は存在しないというものであった。4kb近くの全塩基配列を決めたその仕事は、当時は、とても大変な作業だった。数週間の単位でヒトの全塩基配列が決定できるような今の時代では考えられないことかもしれない。しかし、わずか4kbの塩基配列を決めたその仕事は、世界中に大きな衝擊を与えた。私自身は抑制性T細胞の仕事に全く関与していなかったが、少なからず衝撃を受けた。今まで見てきたものはなんだったのか? これまでの論文は何を意味していたのかなどなど。しかし、実験科学であるから、何らかの説明がつくはずだと考えていた。自分たちが出した実験データは科学であるから再現性があり、実験データは嘘をつかないと考えていたからである。実験データの解釈を間違えることはよくあることなので、新たな解釈が出てくると考えていた。

その年の仙台で行われた免疫学会では、多田富雄先生が座長のシンポジウムで多くの人が集まっていたところで、彼が発した言葉は今でも忘れられない。「皆さん、どうしてこうなったのか、皆で考えましょう」と言うものであった。私自身は、たとえIr領域にI-J分子がコードされていなくても、抑制性T細胞という実験事実があるならば、何も恐れることはないはずだと信じていた。しかし、そのような反論はでず、お通夜のようなその雰囲気の中で、私は、抑制性T細胞というのは陽炎(かげろう)のような実験により成り立っていたのではないかと思うようになった。

 

その後、留学先の米国国立がん研究所(National Cancer Institute:NCI)で知り合った今も親しい友人であり、当時その実験の近くにいた人は、自分は上司から言われるような実験結果が出ず、落ちこぼれだったが、このようなことは捏造という意識がなくとも十分に起こりうるということを冷静に教えてくださった。ボスからこのような結果になるはずだと言われて実験を行う教室員は繰り返し実験を行い、その理論に合う結果が出た実験結果を見せることをすればよいのである。10回くらいやれば一回ぐらいは望み通りの実験結果が出ると言うのである。それでは、科学の再現性ということに問題があるはずであるが、追い込まれた状況ではそんなことは気にしないというのである。私自身はそれらを具体的には知らないので何ともコメントのしようがないが、これはある意味ではどこかでPublicationbiasにもつながる問題である。

私自身は、腫瘍免疫という確かな研究分野の重要性は認めており、その世界をこつこつと築いてこられた先生方を深く尊敬しつつも、免疫の世界がいやになり、腫瘍化に関わる仕事がしたいと思った。しかし、実際のところは、分子生物学の技術がめざましく取り入れられるようになり、このような世界でとてもやっていける自信がなくなり、研究をやめる決心をしていた。

しかし、それまでに留学することも考えていたので、何力所かに手紙を出していたのであるが、Carlo Croce博士かStanley J Korsmeyer博士のところに行く機会が与えられた。たまたま、上田龍三先生の薦めてくださったKorsmeyer博士のほうが先に決まっていたので、そちらに行くことにした。上田龍三先生には、「自信をなくしてとてもやっていける気がしないのでやめたい」と話をすると、「瀬戸君は環境が与えられたらできるから、アメリカに行ってからやめなさい。やめるのはそれからでも決して遅くないから」という励ましをいただき、堀田知光先生には「帰ってきた時には面倒をみるから」と励ましてくださった。

高橋利忠先生、上田龍三先生、堀田知光先生には今もとても大きな恩義を感じている。優れた上司がとても大切であることを実感するが、今、多くの若い医師たちにとってそのような優れた指導者がいるかどうか、はなはだ心許ない。

 

指導者は有名である必要はないし、強大な権力を持っている必要もない。いかに若い人たちの力を引き出すかにかかっている。臨床も、基礎も同じではないかと思う。いかに若い人たちの力を伸ばすことができるか、励ますことができるか、優れた環境へとpromoteすることができるか、そして、真摯に若い人たちのことを考えることができるかにかかっている。時に上司は、指溥者と呼べるものではなく、若い人たちの力をただ吸い取り、気持ちを萎えさせ、promoteを阻害することが見受けられる。これでは人は育たない。また、次世代に伝わらない。考えてみると、私が指導を受けた先生たちのうち、高橋利忠先生は腫瘍免疫学を確立したスローンケッタリングがん研究所のLloyd J Old博士の右腕としてとても有名な先生であったが、それ以外の先生は、現在でこそとても有名になっておられるが、その当時はそれほど有名という訳ではなく、ただひたすら真摯であった。そのこと自体が指導者として要求される最大の要素であろうと思う。

3.私の身近に対に起きた科学の間違いとその功罪

ワシントンDC郊外のベセスダにあるNational Institute of Health (NIH) のNCI, Metabolism BranchのSenior InvestigatorでめったKorsmeyer研究室に着いたのは8月25日過ぎだった。正確な日時は覚えていないが、1985年8月12日の夕刻、

 

御巣鷹(おすたか)山に日本航空JAL123便が墜落した後、確か10日くらいか2週間くらいしてからだったと思う。私の乗った飛行機が日本を離れた離陸時に航空機が斜めにスライドしてふっと無重力状態になった時にとても恐怖を覚えたことを鮮明に覚えている。

Stanley J Korsmeyer博士は、ヒト免疫グロブリン遺伝子の単離に加わったメンバーで、そのプローブを用いて、大部分のnull-celll eukemiaがB細胞由来であることを証明したことで20代のうちに世界的にとても有名になっていた。その当時、私自身はそのことをあまり知らず、むしろ、免疫グロブリンと転座している新しい転座関連遺伝子の仕事がしたいと思っていた。1982年頃からMYCの転座が明らかにされていたので、転座関連遺伝子を単離すれば腫瘍化機構にたどり着けると考えたからである。

当時、Korsmeyer研究室ではT細胞受容体遺伝子やB細胞受容体遺伝子プローブを用いて臨床検体を対象にサザンブロット法による遺伝子再構成の解析をJohn Wright博士が行っていた。もうひとつのテーマとしてBCL2転座切断点領域からの未知の遺伝子探索であった。ほぼ同時にBCL2転座切断点領域を明らかにしたWister研究所のTsujimoto博士、Stanford大学のMichael Clearly博士のグループと共に激しい競争を行っていた。当時、私はその激しい競争という意味をよく理解できていなかったように思う。それはKorsmeyer博士の人柄によるのだと思う。彼は決してフェローたちを奴隸のようにこき使うことは無かった。当時のアメリカでは、フェローたちの給料が自分の研究費から出ていることもあり、一分たりとも無駄にさせないというような考えを持った研究者たちが多く見うけられた。

 

私が個人的に体験することになったアメリカでの最初の科学的な間違いというか解釈の間違いは、免疫グロブリン遺伝子再構成がLineage markerにならないのではないかと言うことであった。それは、10%程度のMyeloid系の血液腫瘍にIgh再構成が認められるからということに基づく。悪口を言う人は、Stanはうそつきだという人もいたらしいが、実際のところはその再構成はD-J結合だけで終わって、VDJ結合に行かないということをStan自身から閒いた(図1: SJ Korsmeyer, personal communication)。なぜそのような話になったのかは、まったく覚えていないが、「Spill over (あふれ出る、流出する)」という単語を覚えている。遺伝子再構成に関わる酵素が分化の分かれ目あたりに発現される時に酵素がSpill overして働いてしまうのだろうということであった。だから、D-J結合はするが、ProductiveなVDJ結合にいたることはないという説明を受けた。私が研究室に参加したのは1985年であるから、この話はおそらく1985年の後半のはずである。その頃にはまだ、血液細胞の分化系統については現在ほど明確にはされていなかったように思うが、このSpilloverという事実は、Myeloid-Lymphoid共通幹細胞の存在を意味していたのだと思う。このような矛盾する実験事実の中に次の研究テーマが転がっているのは今も昔も変わらない。また、言うまでも無く再構成に関わる酵素などこの頃には影も形も無かった。これは、科学的な間違いというよりも、表面的にしか知識の無い人たち、正確に実験事実を知らない人たちが陥りやすい考え違いである。現在も、表面的にしかものを知らない人たちが物知り顔に発言していることを時に見かけるが、実験事実の重みを体験すると、それら評論家たちの空虛さが実感できると思う。その空虚さに気がつかないのは重要なことに参加したことがないからだ。とくに若い医師たちに自ら体験することの重要性を強調したい。

 

 

二つ目の科学的な間違いは自分自身に起こった。私はちょうどその頃、SU-DHL-6細胞株から作ったcDNAライブラリーからBCL2の一部と考えられるプローブを用いてscreeningし、陽性クローンをいくつか拾ってきて、それをシークエンスするプロジェクトをはじめていた。まったく、分子生物学的な知識も技術も無い私にそのような競争の激しいプロジェクトをやらせたのは、ひとえに人手不足という以外に無い。当時は私を含めて、5人の研究者と技師二人の小さな研究室で、BCL2のプロジェクトに関わっていたのはStanを除くと私を含めて3人だけであった。Stanは自らエッペンドルフチューブに試薬を加えながら、「こうやってシークエンスをするんだ。簡単だろう?」と、見せてくれたが、サンガー法も何も知らない私がそれを理解できるわけが無く、プロトコールを読んで、いろいろと人に聞きながら仕事を進めていった。とても不安で、大丈夫かなと思いながらも侮日を過ごしていたが、なかなかうまくいかず、ようやくーヶ月位して塩基配列を決定するための試薬キット自体に問題があると思うようになった。実験的にもそれらしいことが示唆されたので、Stanに自分でキットを作りたいと話をして、実際に試薬を作った。

今では考えられないことだが、同じ会社のキットなのに急にうまく行かなくなったりした。当時は、キットのロット差も大きく、かなり戸惑った。しかし、自分でいくつかの条件を検討しながら試薬を作ったら、一回の条件設定実験で長く読めるようになり、Stanや研究室のメンバーたちからの信用もそのことで得られるようになったと思う。愛知県がんセンターで、初めて行う実験を緻密に組み立てていくことのトレーニングを受けていたので、最初の難関はそれほど大きな問題ではなかった。塩基配列がどんどん読めるようになっても、細かなoverlapする断片をクローニングしながら読み進んでいくので、だいたい順調に行って速い研究者で1年に6-10 kbぐらいのスピードではなかったかと思う。

確か、1985年の12月24日のクリスマスイブは誰もいなくなった研究室で、一人シークエンスをしていた。最初の子供が生まれる前後に渡米したので、最初の5ヶ月くらいは単身赴任していたからである。クリスマスソングがFMラジオから聞こえてくる中、自分自身はproductiveな仕事をしている気がして、豊かな気持ちで静かな時を過ごしていたことを思い出す。一連のシークエンスフィルムを持って、塩基配列を読みながら手書きで塩基配列をノートに記載していったり、タッチペンで塩基配列を読んだりしていたが、全ゲノムが週の単位で読めるようになっている現在、自分たちがしていたことはなんだったのかとも思う。しかし、いつの時代も、実際には、このように地道に実験は進んで行き、時代とともに、変化して行く。振り返ると無駄な作業という人もいるが、そこに参加することに意味を見出さない限り、常に傍観者で終わってしまう。どちらを好むかは、個人の考えにより異なり、人生観によっても異なるので、特にそれらに対してコメントは無いが、私の場合は、自分の努力が最悪の結果を見ることとなった。

Stanと二人で、手書きの塩基配列をもって、私たちのいたNCIのBuilding10から歩いてすぐ近くにあるBuildingのコンピュータセンターに行き、私が塩基配列を読み上げ、彼が端末に打ち込んで行った。その後、それをどうしたのかはよく覚えていない。確かプリントアウトして、ホモロジーサーチのプログラムをその場で走らせたのか、走らせるようにOrderしていったのかまったく覚えていない。それくらい、私には知識が無かった。確か、翌日か翌々日だったと思うが、朝、研究室に行くと、Stanが少し深刻な顔をして、私に部屋に来てくれと言うので、彼のOfficeに行った。二人座れば一杯になるくらいの狭い部屋だったが、彼は、「実はシークエンスしていたのは、ゲノムライブラリーのクローンであることがわかった。それがcDNAライブラリーに紛れ込み、そのクローンをcDNAの陽性クローンと信じてシークエンスしていた。本当に申し訳ない。」「本当に申し訳ない。」と、繰り返し言った。転座切断点領域を含む4.3kbのHind IIIクローンのクローニングに、Insertの長さの関係でcDNAライブラリーを作るλgtlOファージベクターを使っていたのである。私はその時はすぐには理解できなかったが、問違ったクローンをシークエンスしていたことは理解できた。「もし問違えていたら、ずいぶん遅れてしまったし、自分はよいけれどもこれからどうするのか?」と、私は問いた。Stanは「もう一度、ライブラリーを作って敁初からやり直すしかないから、すぐ取り掛かってくれ。」と言ったので、「自分もcDNAライブラリーを作るところから参加させてほしい。」と頼み、技師のPaula Goldman(図2)にぴったりとくっついて、最初からライブラリーを作り直した。

この時の問違いにはいくつかの原因がある。まず、cDNAライブラリーに紛れ込んだゲノムライブラリーであるが、これは最初にBCL2切断点領域の単離に加わった研究者の実験の管理がずさんであったことによる。平気で人のバッファーを手当たりしだい使い、実験台できれいに片づいている他の研究者の場所にも平気で侵入し、使い終わった後も後片付けをしない研究者であった。ある意味で、皆から敬遠されていたのであるが、その一連の行動が貴重なcDNAライブラリーにゲノムクローンの混入をもたらしたと考えられる。これは決して意図的に行われたものではない。なぜなら、あまりにも微量の混入であったために、陽性クローンと考えてもおかしくない割合で混じっていたからである。意図的に入れたのならば、このような微妙な数を入れることは至難の業である。間違いに気がつくのが遅くなった理由のもうひとつの原因は、私自身の経験のなさであった。きちんとした分子生物学的な技術と知識をある程度身につけていれば、もっと早くにゲノムクローンだと見抜けたはすである。また、私が留学した当時から、StanはHoward Hughes医学研究所に移動することが決まっており、どこに移動するか(Harvard, Chicago, Stanford, Washington Uなど)を決めている最中だった(図 2 )。それらのこともあり、とても忙しかったのだと思う。

これらのことが重なり、結局は半年近くのロスをしたことになる。私自身の経験としてはとても貴重なものであったが、この遅れはStanにとって、とても大きなロスだった。この点については取り返しのつかない損失だったように思う。彼は後にいろいろな賞をもらうことになるが、少なくともそれらの賞を受ける時期を少し遅らせたのは確かであり、もっと大きな賞をもらうチャンスをなくしたかもしれない。これらは過ぎ去ったことではあるが、今も心の中では悔いと共に怒りに似たものが残っている。科学には真摯な態度、他人を思いやる心がどうしても必要だと考えるゆえんである。

 

4. 考えることの重要性

最近の医学生や若い医師は過激な受験競争を勝ち抜いてきただけのことはあって、きわめて優秀であり、その中でも臨床や基礎を問わず、血液に興味を持つ人たちは特に優秀であると思う。問題はその優秀さが正しい形で生かされているかどうかだ。ただひたすら教科書を読みつづけ、論文を読みあさり、記憶に刷り込み、患者さんや研究対象に対応する。その姿勢には本当に感心するが、その先に、その人自身が参加する領域はあるのだろうか? 論文であるから著者たちが大きな矛盾のないように記載はしているが、時にはどこかに説明できないようなことがあるはずである。それを上手に処理しないとreviewerたちが指摘するので、どうしても表面的には理解しやすい形に意図的にしてある。それらに読者はごまかされてしまい、実験をしたことのない人たちには、そこに使われている技術が持つ危うさ、確からしさ、限界などが見えない。そのような理解では次が見えないのは当然である。論文を読み尽くした結果、深く理解できているとは言いがたいので、重箱の隅探しが始まり、本質を見ようとしない態度が形成されてしまう。いつの間にか、正解は自分の目の前にあるのではなく、会ったこともない人たち (多くは自分たちと同年代の学生やポスドク)が書いた論文の中に正解があると考えるようになる。常に外に正解を求め、答え合わせをする。答えが合っていない時は自分に間違いがあるのだと考え、目の前の事実を見ようとしない。医学は実践の学問であり、技術であるので、確立された方法を患者さんに実践するのはとても大切なことであり、それを厭うようでは困るが、ただひたすら他人が記載したことを覚え、それと答え合わせをすることにどれほどの意味があるのだろうかと思ってしまう。誰かが書いた物をしつかりと理解することはとても重要であるが、そこに自らが参加して、新しい知見を加えようとする強い意志が必要ではないだろうか? いろいろな学会で議論される、誰々がどこどこの雑誌でどう言っていたなどなど。それはそれで一定の価値はあるのだが、目の前にある実験データや目の前にいる患者さんの症状や病態を冷静に診て、深く考える力がどうしても必要だと私自身は思っている。物知り度を自慢する議論などは、現時点ではほとんど意味がなくなってきているだけではなく、愚かである。