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全文「Stanley J Korsmeyer 博士からの贈り物」特別寄稿

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Stanley J Korsmeyer 博士からの贈り物

分子細胞治療 vol.5 no.2 2006 からの引用

Stanley Jason Korsmeyer博士に会ったことはなくとも、彼の名前を知らない研究者や血液内科医はほとんどいないと思う。Korsmeyer博士は、昨年、すなわち2005年3月31日(日本時間4月1日未明)に54歳の若さで肺がんによりなくなった。その直後には数々の一流誌に、著名な研究者たちが彼の死亡記事(Obituary)を記載した。すべて、彼の業績とその人柄を褒め称え、彼の死を悼んだ。しかし、どの記事も私にとっては彼の人柄を十分に伝えているようには思えなかった。Korsmeyer博士が亡くなってほぼ1年になろうとしている今、彼の人柄の少しでも、ほんの一部でもよいから伝えたいと思い、寄稿した。

 

私はまだアポトーシスの概念ががん研究に取り入れられる前の1985年9月から1988年8月までの3年間、彼のfellowとして、ついでにassociateとしてKorsmeyer博士のもとで研究した。本稿では、私がいつもそう呼んでいたようにStanと記載する。StanがWashington D.C.郊外のNCI(National Cancer Institute, Bethesda, MD)においてSenior Investigatorとなりfellowを採るようになって、私は日本人初のfellowであった。Stanにとっては、7番目のfellowだったので、まさに彼の研究の黎明期に立ち会ったといえる。NCIのBuilding 10の4階の小さな研究室で、5人働けば窮屈なくらいの小さな研究室だった。

Stanは1980年代前半にnull-cell typeと呼ばれていた白血病を、免疫グロブリン遺伝子プローグを用いたサザン解析法により、その由来がB細胞系統であることを世界に初めて明らかにしたことで世界の脚光を浴びた。20代後半のことである。

事実、ヒト免疫ブロブリンの遺伝子クローニングの論文には彼の名前が常に記載されている。Null-cell type白血病の解析の後、濾胞性リンパ腫に特徴的な染色体転座t(14;18)の解析に取りかかり、BCL2転座切断点をクローニングし、BCL2遺伝子の解明に参画し、細胞死をつかさどるBCL2遺伝子およびその関連遺伝子を次々と明らかにしていった。彼は1886年8月にNCIを離れ、セントルイスにあるWashington大学ハワードヒューズ医学研究所に移り、12年間を過ごした。その後、ボストンのHarvard大学Dana-Farber研究所(※1)に移り、亡くなるまでの最後の8年間を過ごした。彼はDana-Farber研究所という名前の一部である。Sindney Farber氏(※2)の名前を冠したSindney Farber Professorship(※3)を与えられ、アポトーシスの研究と乳児白血病の原因遺伝子であるMLL遺伝子の研究をおこなった。彼は同時に、同研究所のがん研究部門のDirectorとしても活躍した

Stanに関しては、いろいな研究所やfellowたちが、それぞれの思いがあることと思うが、私自身の体験を通した最初の頃の彼の思い出を記載したい。

 

私は、JAL御巣鷹山航空機事故の10日後くらいの1985年8月末アメリカに到着した。Rockville市のCongressional Laneというところにあるアパートに住みはじめて1ヶ月ぐらいたった頃、アパートの駐車場に停めていた私の車が盗まれた。最初は盗まれたことということがわからなくて、アパートの周りをぐるぐると4回ほど回った後、盗まれたことを確信し、Stanに電話した。車が盗まれたと言うと、彼は「OH No!」と言って、警察と保険会社に連絡するように教えてくれた。警察が来て、色々と聞かれたが、「おそらく子供のいたずらだろう」ということだった。保険会社は、出てくるかもしれないからしばらく待ちましょう、ということだった。

その日、研究室にどうやって行ったかは覚えてないが、研究室にいくと、Stanは車が出てくるまで、自分の車を使えと言って鍵を渡してくれた。Chevyと呼ばれていたシボレーの小型車だった。Stanは「自分は歩いて15分くらいだから、自転車か歩いて通うからかまわないから使え」と言った。しかし、1週間たっても2週間たっても警察からは何の連絡も来ず、また、1週間ごとに保険会社に連絡をしたが、もう少し待ちましょうということをくり返した。Stanにも、逐次伝えたが「そのまま待て」といわれ、日にちが過ぎていった。

 

車が盗まれて3週間ほど過ぎた雨が激しくふる日のことだった。私は、助手席に、篠原信賢博士(※4)を乗せてのNCIのBuilding 10に向かっていた。George Town Roadから左に曲がって、NCIの構内に入っていく舗装されてない道に入って行った。激しい雨のためところどころに水溜りができていた。その道をゆっくりと車を走らせていると、前方に、オレンジの雨合羽を着て、自転車で私たちと同じBuilding 10方向に行く人の後姿が見えた。水をはねないように、スピードを落として通り過ぎようとして、その人を見たら、Stanだった。自分は雨合羽を着て自転車で通い、その横を彼のfellow(※5)である私が、彼の車に乗って通り過ぎる…。彼は私たちに気づかなかった。

駐車場に車を置いて研究室に行き、彼の部屋に入って、話した。「自分が車に乗ってあなたが自転車に乗っているのはfairではない」というと、Stanは自分は、「何でもないから」といった。私は「これはよくないから、新しい車を買いたい」といって研究室を後にした。私は、その日のうちに保険会社に連絡をとり、車を買いに行った。色々なCar dealerを回り、Nissan Sentraを買った。確か1万ドルくらいだったと思う。当時は1ドルが240円だったので、fellowにとっては安い買い物ではなかったが、自分はこれで、Stanに迷惑をかけなくてすむと安心したことを覚えている。

車の契約をしたあと、駐車したところに戻ると、Stanの車の側面に大きくえぐられたような車にこすられた跡があった。車を買って安心したのもつかの間、またしても、とんでもないことになったと、彼に連絡を入れると、Stanは「車には乗れるか? 迎えに行こうか?」と言った。私は、「車は乗れるけれど、自分が修理費を払いたい」というと、「保険をかけているから大丈夫だ」といって取り合わなかった。Stan、技師のポーラ、ウイーン大学から来ていたウィンフリード(現在(※6)はウィーンにあるGraz大学医学部免疫リューマチ科主任教授)と私の4人でセントルイスのWashington大学ハワードヒューズ医学研究所に行くまでの約9ヶ月間、その車を修理することなく乗り続けていた。車の傷は大きく、扉も開けづらく不便なはずなのに修理をしなかった。この盗難事件については、彼と奥さんのSusanのあいだで、この20年の間、何回も話題にしたが、修理をしなかった理由は聞けないままになってしまった。修理をすると、私に心の負担をかけると思ったのか、本当に、何でもなかったのか今でもわからない。

自分は雨に打たれながら雨合羽を着て自転車で通い、その弟子である私は彼の車に乗って追い越していく場景…。Stanが33歳の時のことである。

この光景は今も私の中から消えることはない。「自分はこのような人間であることができるか…。」という思いが消えることはない。

 

これはStanから私へのとても切なく、美しく、同時に苦しく、また言葉で言い尽くすことのできない大きな贈り物であったと思っている。彼は、多くのプレゼントくれたが、そのひとつでさえも、私は私の親しい人たちにさえ十分に伝えることができない。

【注釈】

Dana-Farber研究所(※1) ダナ・ファーバー癌研究所はアメリカ国立癌研究所に指定されたアメリカ国立癌研究所指定癌センターの一つである。

Sindney Farber氏(※2) シドニーファーバーはアメリカの小児病理学者でした。彼は、他の悪性腫瘍に対する他の化学療法剤の開発につながった白血病と戦うために葉酸拮抗薬を使用する彼の仕事のための現代の化学療法の父と見なされています

Sindney Farber Professorship(※3) シドニーファーバー教授職

篠原信賢博士(※4) 当時、NCIで研究をしていた先輩医師。

fellow(※5) 夫は、fellow(研修生)兼、associate(助手)として、Stanの研究室で研究。

ウィンフリード(現在(※6)はウィーンにあるGraz大学医学部免疫リューマチ科主任教授) 2023年現在も、継続。

 

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