10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

「Stanley J Korsmeyer 博士からの贈り物 前編」~「夫の直腸がん闘病生活と寄り添う妻(10歳のマリア)」第58回~

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9月5日から11日に受けた放射線療法の効果で、痛みやしびれが緩和している時間が長くなってきています。自宅内では歩行器や杖に頼ることなく歩いています。

先日から、抗がん剤のアバスチン点滴が始まりました。担当医から放射線療法の効果を高めるために行うという説明がありました。相乗効果を期待したいところです。

現役時代に投稿したエッセイ集

夫は、今から38年前、1985年~1988年の3年間、基礎医学を学ぶためにアメリカに留学しました。その時に出会った恩師スタンリー・ジェイソン・コースマイヤー(Stanley Jason Korsmeyer)博士の思い出を、雑誌「分子細胞治療(先端医学社発行)」と「日本リンパ網内系学会50周年記念誌」にエッセイを寄稿しています。

夫は、直腸がんに罹患しても、それを受けいれ、「自分の体で実験しているようなもの、痛みがあるのは生きている証拠でもある。」と表現します。科学者としての独特な感性なのか? と不思議に思います。

もう17年も前の2006年発行ですが、夫の恩師Stanley Jason Korsmeyer博士のエッセイ集を読むと、理解できるような気がします。

このブログの記事でも、次の4つのエッセイを、それぞれ数回に分けて紹介したいと思います。

『Stanley J Korsmeyer 博士からの贈り物』 

分子細胞治療 特別寄稿 先端医学社発行

『Stanley J Korsmeyer 博士の肺がんと千羽鶴』 

分子細胞治療 特別寄稿・続編 先端医学社発行

『リンパ腫研究の現状と未来への展望』 

日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行

『私の研究履歴書 MALT1遺伝子発見のバトル』 

分子消化器病 先端医学社発行

Stanley J Korsmeyer 博士からの贈り物 No.1

分子細胞治療 vol.5 no.2 2006 からの引用

 Stanley Jason Korsmeyer博士に会ったことはなくとも、彼の名前を知らない研究者や血液内科医はほとんどいないと思う。Korsmeyer博士は、昨年、すなわち2005年3月31日(日本時間4月1日未明)に54歳の若さで肺がんによりなくなった。その直後には数々の一流誌に、著名な研究者たちが彼の死亡記事(Obituary)を記載した。すべて、彼の業績とその人柄を褒め称え、彼の死を悼んだ。しかし、どの記事も私にとっては彼の人柄を十分に伝えているようには思えなかった。Korsmeyer博士が亡くなってほぼ1年になろうとしている今、彼の人柄の少しでも、ほんの一部でもよいから伝えたいと思い、寄稿した。

 私はまだアポトーシスの概念ががん研究に取り入れられる前の1985年9月から1988年8月までの3年間、彼のfellowとして、ついでにassociateとしてKorsmeyer博士のもとで研究した。本稿では、私がいつもそう呼んでいたようにStanと記載する。StanがWashington D.C.郊外のNCI(National Cancer Institute, Bethesda, MD)においてSenior Investigatorとなりfellowを採るようになって、私は日本人初のfellowであった。Stanにとっては、7番目のfellowだったので、まさに彼の研究の黎明期に立ち会ったといえる。NCIのBuilding 10の4階の小さな研究室で、5人働けば窮屈なくらいの小さな研究室だった。

 Stanは1980年代前半にnull-cell typeと呼ばれていた白血病を、免疫グロブリン遺伝子プローグを用いたサザン解析法により、その由来がB細胞系統であることを世界に初めて明らかにしたことで世界の脚光を浴びた。20代後半のことである。

~途中省略~ 内容は(こちら

 Stanに関しては、いろいな研究所やfellowたちが、それぞれの思いがあることと思うが、私自身の体験を通した最初の頃の彼の思い出を記載したい。

私は、JAL御巣鷹山航空機事故の10日後くらいの1985年8月末アメリカに到着した。Rockville市のCongressional Laneというところにあるアパートに住みはじめて1ヶ月ぐらいたった頃、アパートの駐車場に停めていた私の車が盗まれた。最初は盗まれたことということがわからなくて、アパートの周りをぐるぐると4回ほど回った後、盗まれたことを確信し、Stanに電話した。車が盗まれたと言うと、彼は「OH No!」と言って、警察と保険会社に連絡するように教えてくれた。警察が来て、色々と聞かれたが、「おそらく子供のいたずらだろう」ということだった。保険会社は、出てくるかもしれないからしばらく待ちましょう、ということだった。

 その日、研究室にどうやって行ったかは覚えてないが、研究室にいくと、Stanは車が出てくるまで、自分の車を使えと言って鍵を渡してくれた。Chevyと呼ばれていたシボレーの小型車だった。Stanは「自分は歩いて15分くらいだから、自転車か歩いて通うからかまわないから使え」と言った。しかし、1週間たっても2週間たっても警察からは何の連絡も来ず、また、1週間ごとに保険会社に連絡をしたが、もう少し待ちましょうということをくり返した。Stanにも、逐次伝えたが「そのまま待て」といわれ、日にちが過ぎていった。

次回、後編(この後のエピソード)へと続きます。

 

エッセイ内の写真