10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳):リンパ腫研究の現状と未来への展望~夫の直腸がん闘病生活と寄り添う妻(10歳のマリア)第68回~

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~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行(2010年)からの引用~

夫の現役時代に投稿したエッセイ集

『リンパ腫研究の現状と未来への展望』 
~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行~その内容を次の5つの記事に分けて紹介しています。

5. IT革命がもたらしつつある変化  Steve Jobsの話

🍁「点と点をつなぐ:Connecting the dots」
🍁「愛と喪失:Love and Loss」「死:death」

6.死についての私自身の体験

🍁 高橋英伸先生(享年39歳)
🍁 大星章一教授(享年54歳)
🍁 Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳)

 

尚、冒頭の 1.~4は、別にまとめてあります。その記事は、(こちら

最後の 7.若い人たちへの提言 (こちら

大見出し:6. 死についての私自身の体験

🍁 Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳)

もう一人の先生は1985年から1988年のアメリカ留学時代の3年間をともに過ごしたStanley J Korsmeyer博士である。

彼はOrbituary(死亡記事)で、Scienceはすばらしいがそれにもましてその人柄がすばらしいと言われたほどの研究者である(Timothy Ley, Science, 2005)(図7)Korsmeyer博士はヒト免疫グロプリン遺伝子のクローニングに参加し、当時null-cell ALLといわれていたCommon ALLはB細胞系統に属することを初めて明らかにし、世界的に注目されたのは前述したとおりであるが、私が留学した当時はBCL2遣伝子の単離に加わっていた。BCL2のcDNA塩基配列の報告は少し遅れたものの、転座によるBCL2 deregulationの本質を明らかにした。機能的には、 BCL2が細胞死(アポトーシス)を制御することを明らかにした。また、そのアポトーシスに抵抗することが腫瘍化につながるという概念をがん研究の中に取り入れたことが、すばらしい功績であると思う。

彼は深く考え、直ちにその意味を理解したに違いない。彼は、2003年の12月に世界中にいる彼の研究室を卒業した人たちに向かってメールを出し、自分が肺がんになったことを打ち明け、治療していることも知らせた。その直後、仲間たちの間でいろいろなメールが世界中を飛び交った。

私は最後の1年半の間に2回見舞いに行くことができたが、2004年の 5月の連休後に、一回目の見舞いに行った。その時はイレッサ(※1)が劇的に効いていて、頭に3個の小さなスポットがあるだけとなったので、ガンマナイフ(※2)で治療する予定だと言っていた。発病後、よく治療に反応したものの、1年くらいして再発し、2005年3 月31日未明、日本時間の4月1日に亡くなった。

私は、彼の亡くなる1ヶ月半前にも家を訪ね、彼とその家族を見舞った。両親がいて、奥さんがいて、次男がいて、皆最後の時に備えていたように思う。すでに、Stanは自力では立ち上がれなかった。

その時に、Stanから、「研究室から技師(Connie)とポスドク(※3)(Daniela)が来るが、議論に参加するか?」と言われ、「もちろん」と答えて、議論に参加した。 Danielaというポスドクは何人かの仕事の進捗状況を説明した。その中のある人の仕事を説明している時に、そのポスドクはあることで困っていると言い、Danielaは「そこでは方法は3つある。速くやるか、よくやるかあるいは両方か(Do it fast?  Do it better?  Or both?)。」彼女は続けた。「I thought you would like to do it better, I recommended to・・・(私は、あなたが良くやる方が良いと思ったので…)」、Stanは短く「OK」と答えた。

もう命が途絶えようとしている彼は最後まで意義のある間違いのない仕事がやりたかったのだろう。私は、「ああ、この人は本当にScienceが好きなんだ」と、思った。私が一緒にいる時もそれ以降も、いろいろと苦しいことはあり、思うようにも進まず、竸争にも負けたことは多かったとは思うが、最後の段階に至っても、彼は姿勢を崩さなかった。彼のこれまでの姿勢、思想が凝縮され、私に強く伝わってきた。

彼の家を辞する時に、自力で立ち上がることができないので、ペットに座ったままの彼と強く抱き合い、「またくるから」と、言って別れた。それが彼との最後となった。2005年の2月の半ばである。その一ヶ月半後に彼は亡くなった。

彼と別れた後、ご両親の車で Dana-Faberまで送っていただいた。ご両親とは、この後も、セントルイスのWashington大学で定期的に開かれるStanly J Korsmeyer Memorial Lecture(※4)でも、他の機会でも、何回かお会いし((図 7 , 8)。つい最近では、今年の6月12日に開かれた第5回Stanley J Korsmeyer Memorial Lectureでお会いすることとなった。

とても素敵なご両親で、Stanの人柄を育んだご両親の暖かさ、他の人たちに対する思いやりを会うたびに感じる。そして、関わった人たち、特にTimothy Ley(※5)には、Stanのお父様は「このような会をしてくれて本当にありがとう。」とお礼を言った。それに対し、Timは、「いや自分はほんの周辺にいるだけ(periphery)で、何もしているわけではない」と答える。

この謙虚さ、人間性の豊かさはStanを取り巻く人たちの特徴でもあった。Stanが肺がんであると診断された時にfellow(※6)たちが一晩で織り上げた千羽鶴(図9a, b)。自分は雨合羽で自転車で通いながら車を盗まれたfellowに自分の車を使わせて、何でもない顔をしている姿。

これらに、私が巡り会えたことは奇跡に近い。彼はプロジェクトを考える時に、「できるからという理由でするのは最悪の選択だ。重要なことをすることが最も大切だ。」と、教えてくれた。彼は54歳の若さで亡くなったが、私たちの何倍もの時間を生きたのだと思う。

自分の子供を亡くした両親の悲しみは、想像すらできないほどの悲しみであるだろう。私自身はStanの死に対して、本当に悲しかった。病気になったこともとても悲しかった。高橋英伸先生のご両親も房子奥様も、同様の、あるいはそれ以上の悲しみに今も包まれているに違いない。

 

 私は二人の師を亡くし、自分はその年を越えてしまったけれども、どのように二人から受けた恩恵を次の世代に伝えたらよいかわからない。また、二人だけでなく、これまで自分に注がれた深い愛情をどのように次の世代に伝えたらよいかわからない。私に注がれた深い愛情は次の世代に伝えることでしか、恩恵に報いることはできないが、自分はそのとてつもない恩恵の重さを感じると押しつぶされそうな苦しみを覚える。果たせるはずがないからである。

しかし、亡くなった高橋英伸先生大星章一先生、Stanley Korsmeyer先生たちから受け継いだ思いは、次の世代に伝えることでしか、私に課せられた責務を果たすことはできない。

【注釈】

イレッサ(※1)主に「肺癌(非小細胞肺癌)」における治癒・延命・症状緩和効果を持つ薬

ガンマナイフ(※2)正式には「ガンマナイフによる定位放射線手術」と呼ばれる。ガンマナイフは、放射線の一種であるガンマ線が、約200個の細い照射口から正確に一点に集中するよう作られた治療機器で、脳腫瘍など主に脳疾患の治療に使用される。

ポスドク(※3)大学院博士後期課程(ドクターコース)の修了後に就く、任期付きの研究職ポジションのこと

Stanly J Korsmeyer Memorial Lecture(※4)Stanly J Korsmeyer記念講演会

Timothy Ley(※5)Stanly J Korsmeyer記念講演会の主催者

fellow(※6)研究室で、指導者について学ぶ研修生。

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夫は、Stanが亡くなる1年半の間に、ニューイングランドにある彼の自宅を2回訪問しています。

当時、夫の職場である研究所では、存続に関する難題が持ち上がり、夫は先頭に立って対処していました。精神的に辛い時期だったと思います。

Stanの最後の最後まで諦めない姿勢や、包み込むような人柄、彼を囲む家族の温かさに触れ、癒され、励まされたのではないでしょうか。

夫は、エッセイ集を連載する直前に、「ニューイングランドの春」というタイトルでStanとの最後の交流について手記を書います。現在の心境も綴ったものです。

エッセイ集の完結編として、次回の記事でご紹介します。

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