10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

大星章一教授(享年54歳):リンパ腫研究の現状と未来への展望~夫の直腸がん闘病生活と寄り添う妻(10歳のマリア)第67回~

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~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行(2010年)からの引用~

夫の現役時代に投稿したエッセイ集

『リンパ腫研究の現状と未来への展望』 
~日本リンパ網内系学会50周年記念誌発行~その内容を次の5つの記事に分けて紹介しています。

5. IT革命がもたらしつつある変化  Steve Jobsの話

🍁「点と点をつなぐ:Connecting the dots」
🍁「愛と喪失:Love and Loss」「死:death」

6.死についての私自身の体験

🍁 高橋英伸先生(享年39歳)
🍁 大星章一教授(享年54歳)
🍁 Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳)

 

尚、冒頭の 1.~4は、別にまとめてあります。その記事は、(こちら

最後の 7.も、順次まとめます。

6.死についての私自身の体験

🍁 大星章一教授(享年54歳)

 私は今、56歳になったが、私の先生のうちの2人は54歳で亡くなっている。一人は、学生の頃、お世話になった病理の大星章一教授だ(図6a, b)。私が授業にほとんど出席しなかったこと(実際は1年生の時に12回有った授業に一度も出たことがない) をきっかけに、医学部2年生の夏休みに病理学教室に3週間ほどお世話になったことがある。

大星先生からは「3週間では何もできないから、いろいろと見学していなさい」と言われた。ただ、ぶらぶらといろいろなことを見学していただけだったが、その頃、教室ではいろいろながん細胞の細胞培養を行っていた。その頃樹立された胃がん細胞株のMKNシリーズ(Magen Krebs Niigata)は、今も世界中の研究室で使われており、自分が参加したわけでもないのに、それらを使った発表や論文を見るととても誇らしい気持ちになる。

その3週間のうちのある時、「瀬戸君、基礎研究をしなさい」と言われたことがある。自分としてはあまり気が進まなかったというよりも、むしろ、あまり研究をする気は無かった。その頃、教室員の人たちがやっていたことに対して、うんと面白そうだと思ったわけではないからだ。また、その頃は、自分は何をしたいのか考えもせず、ただ、ほんやりと毎日を過ごしていた。

1976年の夏なので、横田めぐみさんの拉致事件が起きる1年前のことである。めぐみさんがさらわれたとされる寄居浜で、昼間からひとり泳いで遊んだりしていたのだが、今の忙しい医学生たちからはとても想像がつかない怠惰な学生生活を送っていた。

医学部3年生の6月頃に病理の試験があったが、その時に大星先生がテストを見回りに講義室に入ってこられて、しばらく見回った後、正面左のドアから出て行かれた。出て行かれる時に、どういう訳か、振り向かれた大星先生と私の目が合い、にこっとされた。その後、教授室に行かれる途中で倒れ、不帰の人となった。享年54歳であった。

 

  卒業近くになると、大星先生の言っていた「基礎研究をやりなさい」とう言葉が心にかかり、1年か2年、ほんの少しだけまねごとをしようと思い、紹介されて、愛知県がんセンターに行くことにした。

卒業後、20年くらいしてからの頃だったと思うが、アメリカ留学から帰ってきて、やはり仕事をやめたいと思うほど苦しいことがあった。確かそれは、経済不況で愛知県がんセンターが縮小計画にあった時だったと思う。偶然その時、研究所員を代表する立場(研究所協議会議長)であった私は、県会議員の人たちや県庁の事務系の人たちとの交渉にあたらざるを得なくなり、研究所員と彼らとの交渉で板抉みのような状況になったことがあった。あるいは、研究上のことで行き詰まった時だったかもしれない。その直接のきっかけはよく覚えていないが、とても深く苦しんだことがあった。

その時に、東京、八王子にある東京霊園の大星先生のお墓参りに行った。ずらっと一面に並んだお墓の中から、大星先生のお墓を見つけた。墓碑銘には大星章一と書かれてはおらず、「欣游」と書かれてあった。その墓石の背面に大星章一先生の名前が彫ってあった。私はその時には「欣遊」の意味がわからなかった。

後で、大星教授時代に技官であり、国立がんセンター研究所から一緒に赴任してきた清藤勉氏(※1)に電話をかけ、その意味を問うと、勝海舟揮毫(※2)による文字からとった物で、「遊び喜べ」、「遊び楽しめ」とか、言う意味であることを知った。追い詰められていた私は、はっと我に返る瞬間でもあった。

いつの間にか心に余裕を無くし、自らを追い詰めて行ってしまっていた自分に気づき、少し心の安定が得られたことを思い出す。大星先生は、亡くなられて20年たった後も、私に語りかけてくださったのである。生前はただ夢中で仕事をしているだけだと思っていた先生に、喜びが無くては意味がないことを教えられたのである。とても貴重な体験であった。

【注釈】

清藤勉氏(※1)大星章一先生の助手として医学的な学術に関する仕事をした方。元国家公務員(技官)。株式会社免疫生物研究所代表取締役。夫が現役引退後に第二の職場としてその研究所でお世話になった。

揮毫(※2)(ぎこう)毛筆で何か言葉や文章を書くこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

 

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夫が大学時代に出会った恩師、大星章一先生のことはこのエッセイ集を通して初めて知りました。恩師と目が合った直後に、帰らぬ人になった経験は、まだ学生だった夫にとってとても衝撃的だったことと思います。

また、時を経て、先生のお墓に刻まれた「欣遊」の言葉との出会いに癒されたことに、大星章一先生との深いご縁を感じます。

夫は、大星章一先生に出会わなかったら、基礎研究の道に進むこともなく、アメリカ留学でStanley J Korsmeyer博士のもとで研究に従事することもなかったでしょう。人生を決定する大きな出会いだったのだと思います。偶然というより必要な出会いが、その時その時に与えられたのではないでしょうか。感謝なことです。

大星章一先生も、Stanley J Korsmeyer博士もすでに亡くなられましたが、これからも夫の心の中で生き続け、語り掛けてくださるのではないでしょうか。

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次回は、
🍁 Stanley J Korsmeyer博士(享年54歳)について、再びご紹介します。