10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

私を創ってくれた「山形」

ブログランキング・にほんブログ村へ

ふるさと「山形」の兄

暑い夏がやってきました。私の誕生日ということもありこの時期は毎年、生まれ故郷が懐かしく思い出されます。中でもとりわけ、実家を継いだ兄の存在感の大きさを改めて思い起こしています。私にとって兄の存在は大きく、今ある自分は兄のお陰と思っています。

私の実家は、両親、姉、兄、私の5人家族です。幼い頃には祖母も同居していました。父の代から大工を営んでいます。

10歳年上の姉は年が離れているということもあり、私が小さいころから何かと世話を焼いてくれる存在でした。

それに比べて、5歳年上の兄とは一緒に遊ぶでもなく距離感があったように感じていました。その兄の存在が大きく変化するのは、私が高校生の頃からです。その時すでに、兄は父の大工仕事を継いで一緒に仕事をしていました。

私は高校の時は自転車で通学していましたが、雨の日や雪の日には兄が「学校まで送っていくぞ」と軽トラを走らせてくれました。

送ってくれる兄に対して、照れもあったのか、声に出して「ありがとう」と言えなかったように思います。兄は仕事の現場まで遠回りにもなり、仕事の時間もあったでしょうが、いやな顔一つしないで送ってくれました。

両親は、妹思いの心優しい兄に感心していたようです。

その兄が、私の進路決定にとても大きな影響力を発揮してくれました。今でも兄の言葉は忘れられません。

高校卒業後の進路を選ぶとき、県外の大学に進学したいと言った私に「女は大学に行かなくても良い。もし行くとしても、家から近い県内の短期大学にしなさい。」と、両親は反対。日本全体でも女性の大学進学率は低い時代でしたが、その当時私の実家の地域ではかなり低いものでした。ましてや県外の大学というのは全くの想定外だったのでしょう。

両親の反対がありましたが、なんとか説得できないものかと思い巡らしていました。すると、兄が「希望通りに県外の大学に進学させてあげても良いのではないか。」と言ってくれたのです。この兄の言葉があったお陰で、両親は最後には、賛成に転じてくれました。

両親は、宮大工を目指していた兄を説き伏せ、進路先を変更させて父の後継者にした経緯があります。両親は兄に申し訳ないという気持ちを持っていたようです。その兄が賛成したので、結果的に両親は私の希望通り県外の大学進学を許してくれました。

もしもあの時、兄の心の中に、自分も反対されたから妹も反対されて当然という考えがあったなら今の私はありません。大学で夫と出会うこともなかったでしょう。

希望通り県外の大学に進学した後、両親から兄が反対したら大学進学はなかったと言われました。「兄に、有難いと思わなくてはいけないよ。」と諭されたことを思えています。

30メートル 後ろから見守ってくれる人がいれば 人は強く生きられる

樋野興夫先生の言葉の処方箋です。

樋野興夫先生の本「あなたはそこにいるだけで価値がある存在」から

30メートルは、声は聞こえないけれど、姿は見えて様子はうかがえる。何かあればすぐ駆けつけられる距離です。

すぐ隣にいて「いつも支えてあげる」と言われると、人は疲れてしまいます。いてもらって申し訳ないという気持ちになり、支えて欲しくても遠慮してしまうこともあるでしょう。それに、そっと一人にしておいてほしいときもありますよね。

人で心細くなり振り向いたら30メートル後ろに見守ってくれている人がいる。そのくらいの距離感がちょうどいいと思います。

人は一人では生きられません。見守ってくれる人が全く思い浮かばないという人でも、誰かしらとはつながっています。~途中省略~

そしてご自身も、誰かを見守る存在であってほしと思います。

私にとって30メートル後ろから見守ってくれる人とは、間違いなく兄の存在です。兄には感謝しても感謝しきれません。

今は仕事を甥に譲り隠居いているけれども、持病を持っているとも聞いています。体を労わり心穏やかに暮らして行って欲しいと願っています。

樋野先生の言葉にあるように、自分自身も家族や出会った人たちを見守る存在になれるようにと願っています。日々の歩みの中で、自分自身を見つめ直していきたいと思います。