10歳のマリアのブログ

~~直腸がんで抗がん剤治療中の夫に寄り添う妻の気づき~~

「夫のエッセイ集 連載を終えて」~「夫の直腸がん闘病生活と寄り添う妻(10歳のマリア)」第70回~

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エッセイ集連載 夫の協力

このブログで、2006年と2011年にすでに分子細胞治療の雑文として発表していた夫のエッセイ集を、10回に分けてご紹介しました。

ブログを開設して以来、投稿記事の数が増えていくにしたがって、夫はブログ「10歳のマリア」により関心を寄せてくれるようになりました。本人もなにか書きたいという気持ちが湧いてきたようで、それが「完結編:夫のエッセイ集 20年目のニューイングランドの春」につながったと思います。

未完成に終わっていたStanとの最後の交流の文章を、いつかは書き表したいと思い続けていたのだそうです。公開するかどうかは決めていなかったものの、「20年目のニューイングランドの春」を書き上げた際は、「胸のつかえが下りたようだ。」と、とても喜んでいました。

夫の完結編をエッセイ集全体も合わせて、ブログ「10歳のマリア」に投稿したいと思い立ち、夫に相談したところ快く賛成してくれました。

夫のエッセイは、かつて読んだことがあります。ですが、夫とStanの交流、大星章一教授や高橋英伸先生の死についての夫の熱い思いが綴られているエッセイは、闘病中の今だからこそ深く理解できるように思います。

エッセイ集連載の工夫

夫の同意を得て、連載を決めたものの、実際に投稿するまでにはたくさんの工夫が必要でした。

エッセイ集は全部で30ページにも及び、相当な量です。1ページごとに、びっしり文章があり、たくさんの写真も掲載されています。しかも、何年も前の文章なので、原稿のファイルはほとんど探すことができません。ただ、ラッキーなことに、写真のファイルは全部見つかりました。

紙媒体の別刷りのエッセイ集とPDFファイルをブログの記事に投稿するためには、文字起こしをして電子化する必要ありました。音声入力や、変換ソフトを駆使して一字一句を原本と読み比べながら作業を行ったため、思っていたより時間がかかりました。

反面、この時間のお陰で、夫とエッセイ集に関する会話が頻繁になり、夫の気持ちをより理解できるようになったと思います。連載をしたことは、私自身にとっても深い意味があったことに感謝しています。

時々、内容の分からないところを夫に教えてもらったり、エッセイ集には描かれていない思いも知ることもできました。夫が、「こうして昔の自分の話をしていると、過去にさかのぼって一緒に体験しているみたいだ。」と言ってくれました。

夫が特に印象に残っているのはStanの千羽鶴、最後の散歩の"Your visit meant me a lot. Thank you, Masao"、だそうですが、エッセイの投稿を通して、この場面に私もいたような気持ちになりました。

夫は、「死に直面しないとわからないことがある。いかに長く生きたかではなく、いかに深く生きたかが問題なのだと思う。」と言います。

54歳の若さで亡くなった恩師の大星章一教授、Stanley J Korsmeyer 博士との出会いと、切ないお別れを体験したからこそ言える言葉なのだと思います。

死の直前までも、前向きに生きた姿勢は、これからも夫の励みになっていくでしょう。

嬉しいお見舞い「さよならの握手」

エッセイ集の連載している時に、現役時代に職場でお世話になった方たちが我が家にお見舞いに来てくださいました。それぞれ、札幌と仙台、そして名古屋市内からのお見舞いに来てくださいました。

その時、夫はお見舞いをとても喜び、会話も弾み昔に戻ったかのような笑顔でした。私は、長年、夫の秘書として従事していたので、お見舞いに来てくださった方たちを良く存じ上げており、懐かしい顔ぶれでもありました。

最後にお別れする時に、握手をしていましたが、そこに込められた深い意味を理解できたのは、「完結編:夫のエッセイ集 20年目のニューイングランドの春」を読んだ後でした。

夫は、これからの日々、一日一日が貴重であり、痛みと向き合いつつ、生かされている今現在を噛みしめながら時を刻んでいくことでしょう。私も伴走者として、共に歩める幸いに感謝しながら歩んでいきたいと思います。

ここにさよならの握手を引用します。

ああっ、これは さよならの握手 なのだと思った。 頑張ってくださいと言っても、私たちはそれで治るというような考えを持っていない。 ただ見舞いに来て話をし、時間を共に過ごすということがとても貴重であり、 また 励ましの意味も込めて握手という方法をとるのだと思った。 そうか! 握手にはさよならの意味があるのか そのように思った1日だった。私自身、Stanが亡くなる1年くらい前に、ボストン郊外の自宅を訪ね、その家から帰るときに、また来るからと言って、Stanと抱き合ったことがある。

私達のさようならの握手は20年の時を超えたデジャヴュ(※1)なのだ。

【注釈】

デジャヴュ(※1) 既視感(きしかん)は、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象である。フランス語: デジャヴュ、フランス語由来の英語 :デジャヴ、デジャブ、デジャビュデジャビュー、デジャヴー、デジャヴューなどとも呼ばれる。

さよならの握手」の記事は(こちら

 

次回に続きます。